
初代高砂浦五郎が亡くなったのは明治33年4月8日、お釈迦様の誕生を祝う花まつりの日です。明治33年は西暦1900年ですから、今年2025年4月8日は初代高砂の125回忌となります。当時の新聞を調べていると、亡くなる2年前の明治31年9月25日から11月18日にかけて50回に亘り“高砂浦五郎”伝が連載されていることを知りました。
初代高砂浦五郎は、角界の“日蓮”や“マルチン・ルター”、はたまた“風雲児”と称され、明治17年には『櫓太鼓音高砂』という本にもなり、こちらは漢文調で難解なのですが、時代が下り新聞記事ということもあり、読み易く殊の外面白き連載になっていました。全文は、凡そ7万字程の分量ですが、明治31年当時の文体や漢字の使い方が興味深く、一か月近くで全文書き写す事が出来ました。
第1話は、「東京相撲協会元の取締として其の名を人に知られたる高砂浦五郎は幕府瓦解の後天下の力士諸藩の扶持に離れて相撲道の衰運止め難く四本柱の根も朽ちなんとせし時にあたり序ノ口より其の身を起こし遂に名誉の取締に上りけるがその間千辛万苦を凌ぎて歴弊を改め衰微を防ぎ昔に勝る本場所の繁昌今日あるを致せしなど其の道の効労少なからず而して其の人今は重き病の床に在りて再び世に立たんと覚束なく一時の名声早くも人に忘られんとするを惜しみ茲に同人の伝を綴り掲げて以って広く示さんとす」という文章で始まり、千葉県大豆谷村での百姓生活、力士を志したきっかけ、入門後の数々の武勇伝が講談を聞くようなリズムで展開され、読み入ってしまいます。
明治になり、お抱えであった姫路藩酒井候への恩義を裏切った綾瀬川に対する場面は、「ヤイ綾瀬手前は恩を知ってるか、イヤサ義理というものを弁(わきま)えて居るか、酒井家の御恩を忘れ己達の顔まで潰して土州の邸へ抱えられ好い子になって大きな面をするのみか日外(いつぞや)云った己の言葉を根に持って一昨日の招魂社の場所に能くも満座の中で此高見山に恥面掻かしたな」と詰め寄り「手前のような恩知らずは犬猫にも劣った奴、仲間の者の面汚しだ、又一つには酒井家への申し訳に男らしく腹を切れ、(中略)サア美事に腹を斬って仕舞え」と迫ります。
最終50話では功績を讃え、記念碑建設に弟子達が奔走していることに触れつつも、病魔は依然として此名物男を今尚廟辱(びょうじょく)の裡(うち)に包めり、と締めています。