~その 14 戦犯が涙した呼出し多賀之丞の甚句~

 呼出し多賀之丞は、三重県一志郡一志町(現津市)の生まれで保険外交員のかたわら消防団長を務め素人相撲の呼出しや義太夫語りもやりつつ、高砂一門の巡業の際には呼出しも手伝っていたといいます。昭和15年6月高砂部屋の呼出しが病気で倒れたため、横綱前田山の4代目高砂親方に正式に呼出しとして採用されたのが50歳の時でした。角刈りの頭にハッピ姿、渋みのあるよく通る声で、マイクがない時代に旧国技館の大鉄傘の一番上まで声が届いたというほど声量も豊かだったそうです。その声の良さを買われて、中年からの中途入門にもかかわらず、呼出し小鉄と交代で、奇数日は多賀之丞が、偶数日は小鉄が結び前三番を呼び上げていました。
 昭和27年春場所前の1月9日、出羽一門を中心に時津風・伊勢ケ浜の有志66名が、当時A級B級戦犯が収容されていた巣鴨拘置所(通称巣鴨プリズン)を訪れて慰問相撲を行うことになり、高砂部屋呼出し多賀之丞も同行、この日のためにつくった「新生日本」という相撲甚句を披露します。

呼出し多賀之丞(左)右は國登関 昭和24年1月場所浜町仮設国技館にて

 

        (ハァー ドスコイ ドスコイ)
    世界第二の あの戦いに  
        (ハァー ドスコイ ドスコイ)
ハァー 遂に昭和の 二十年
    月日は八月 十五日
    恐れ多くも 畏(かしこ)くも
    大和島根(やまとしまね)の 民草(たみくさ)に
    大御心(おおみこころ)を しのばされ
    血涙(けつるい)しぼる 玉音(ぎょくおん)に
    停戦命令は 下りたり
    血をもて築きし 我が国も
    無情の風に さそわれて
    今は昔の 夢と消ゆ
    されど忘るな 同胞(はらから)よ
    あの有名な 韓信が
    股をくぐりし 例(ためし)あり
    花の司の 牡丹でも
    冬はこも着て 寒しのぐ
    与えられたる 民主主義
    老いも若きも 手を取りて
    やがて訪る 春を待ち
    パッと咲かせよ ヨーホホホイ
    ハァー 桜花 ヨー
        (ハァードスコイ ドスコイ)

 荒木貞夫元陸軍大将ら約300名の戦犯たちは、久しぶりに見る生の取組や土俵入りに大歓声と拍手喝采を送っていましたが、多賀乃丞の甚句が始まると場内は静まり返り、渋みのあるよく通る声に聞き入りました。そして唄が終わると場内は割れんばかりの拍手に包まれ、荒木大将の目には涙が光っていたといます。その2年後、多賀之丞は静かに相撲界から身を引きます。中年からの入門にもかかわらず声の良さで立呼出しをやったことが仲間からのねたみを買ったとか、声の良さに惚れた女性問題があったとか噂されたそうですが定かではありません。その多賀之丞の甥が平成14年3月場所に副立呼出しで定年を迎えた三平さんで、甚句とその名は、利樹之丞へと引き継がれています。巣鴨プリズンは、東京拘置所として葛飾区小菅に移転し、跡地にはサンシャインシティの高層ビル群が立ち並んでいます。 

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