朝乃山 三段目優勝 真の力の士(さむらい)へ! 大相撲三月場所

昨年名古屋場所以来の土俵に朝乃山が帰ってきました。

初日のお昼過ぎ、まだ観客もまばらな大阪府立体育館は、朝乃山が花道から入ってくると大きな拍手と歓声に包まれました。朝乃山応援タオルや横断幕もあちらこちらに見られます。
高砂部屋関係者、富山県人のみならず日本国中の相撲ファンが待ち望んだ瞬間でした。
みなさんの期待を胸に、それを力に変えて一日一番朝乃山の相撲を取り切りました。
申し合い稽古を再開してようやく一か月、まだまだ膝の具合も相撲勘も本調子ではありませんが、三段目の土俵とはいえ15日間自分の相撲を取り切ったことが、これからも大きな自信につながっていくことでしょう。

ここ一、二年、ケガが続く朝乃山の不運を嘆く方は多いでしょうが、ケガや病気に真摯に向き合っていけば、そこから学ぶものは逆に大きなものがあります。体が元気なときには気づかない、心の持ち方、体の使い方、ケガをしてみて初めてわかる事が多々あります。

ケガをする前も他の力士より基礎運動を大切にする方でしたが、ケガから復活後これまで以上に基礎運動に真剣に取り組む姿は鬼気迫る感さえあります。若い力士たちにも見習って欲しい姿です。朝乃山は基本的に大らかでのんびりした性格で、それがいい所でもあるのですが、相撲に向き合う姿勢はごく普通の力士でしかありませんでした。
あのまま大関に在位していたら何場所か勤めた後、陥落して普通の幕内力士のまま終わっていた可能性も高いと考えています。それが、不祥事による陥落とケガが重なり二度も三段目まで落ち、それ故逆に相撲に対する思いが格段に深まり且つ高まったのを感じます。相撲を取れる喜びを心底体で感じ、相撲に向き合う姿勢は、真の力の士(さむらい)として相応しいものがあります。そういう力士こそ横綱になる資格があると思っています。

大阪場所の宿舎である久成寺は谷町九丁目駅近くにあります。

現在一般的にも使われる後援者や支援者を指す“タニマチ”という言葉は、明治時代に谷町にいたお医者さんが、力士を無料で診て小遣いまで与えていたことが語源で、相撲界とも深く関わりのある界隈です。実際昭和40年代頃までは谷町界隈のお寺に相撲部屋が軒を連ねていましたが、現在残っているのは我が高砂部屋のみとなりましたが、大阪場所は元々高砂部屋にとってゲンのいい場所です。

5代目師匠の横綱朝潮は、優勝5回のうち4回が大阪場所で“大阪太郎”と呼ばれました。また先代の大関朝潮も入門はもちろん、大関昇進を決めたのが昭和58年の大阪、初優勝も昭和60年の大阪場所、引退も平成元年の大阪となりました。朝乃山も新十両が大阪場所、大関昇進を決め協会からの使者を迎えたのは先代と同じ久成寺でした。そして今回、そのゲンのいい大阪久成寺から再スタートを切ることが出来、真の力の士として横綱への道を一歩一歩歩んでいきます。

報告する

関連記事一覧