米軍統治下の島からの密かな入門

14勝1敗で十両優勝の米川(ベースボールマガジン社『相撲』より転載)


今年は奄美群島復帰70周年にあたります。昭和47年(1972)沖縄が日本復帰なったのは現在でもよく報道されますが、奄美が28年(1953)まで米軍統治下にあったことは知らない方が多いのではないでしょうか。20年8月の敗戦後、北緯30度から南の島々、トカラ列島と奄美群島は沖縄と共に米軍統治下に置かれました(通達は21年1月29日)。それまで島民の生活を支えていた大島紬やサトウキビによる黒糖は、本土との交易を断たれ、口に出来るのは米軍からの配給食糧のみとなり島民の生活は困窮を極めました。
昭和4年生まれの米川文敏青年は、終戦を迎えた年に16歳。幼少の頃から人一倍大きな体に恵まれ、食べ盛り育ち盛りの頃に米軍統治下に置かれた徳之島では、食事と衣服に苦労したことは想像に難くありません。米川青年の叔父大沢徳城氏が明治大学相撲部で活躍していたこともあって、以前から大相撲入りを勧められていた米川青年は、働けど働けどその日の食い扶持にありつけるのがやっとの島の生活から抜け出すため、密航しての入門を決意します。

時は昭和23年2月の深夜。徳之島の南東に位置する喜念浜で数人の若者が忍び足でサンゴ礁に囲まれた岩場に出て合図のかがり火を焚きます。やがて船が現れると、米川青年は着ていた衣服を頭に括り付け褌一つになって沖合で待つ船に泳ぎつき、船倉に大きな体を横たえ三日三晩息を潜めました。密航のための船ですから目立たない小さな漁船で、大時化に合うと一たまりもありません。また巡視船に拿捕される恐れもあります。何とか無事に淡路島に辿り着き、そこから更に神戸の親戚の家へ身を寄せ沖仲仕として働きながら入門の機会を窺います。叔父の大沢氏は学生相撲で親交のあった笠置山との縁で出羽海部屋入門を考えていたそうですが、大沢氏の後輩の水野幸一氏との縁から横綱前田山の高砂親方が噂を聞きつけ神戸までやってきて半ば強引に高砂部屋入りが決まったそうです。23年秋場所は10月に大阪阿倍野橋の仮設国技館にて行われ、19歳になった米川青年は初土俵を踏みます。出身地は兵庫県武庫郡魚崎町(現神戸市)。初土俵から2年後の25年秋場所は新十両で14勝1敗で優勝し新入幕。入幕5場所目の27年5月場所から朝潮と改名。奄美復帰の28年は関脇で活躍し、29年5月場所になって初めて出身地を鹿児島県徳之島と名乗ることが出来ました。密航での入門から6年近く経ってのことでした。

報告する

関連記事一覧