『大相撲の社会学』の3章は「相撲部屋の一門関係」です。そもそも師匠と弟子が生活を共にする共同体としての相撲部屋が形成されたのは江戸文政(1818~1831)の頃のようですが、藩のお抱え力士になると藩邸に住み、部屋よりも藩の意向が優先されていました。明治維新以降、藩のお抱えが解かれ部屋に戻った力士達は年二回の本場所のみでは生活できず、経済的自立のため地方巡業に出るようになり、巡業を成立させるために集まった集団が“一門”であったといいます。それ故、機能集団としての一門が発生したのは明治以降で、昭和61年(1986)の執筆当時にあった五つの一門(高砂、出羽海、立浪・伊勢ケ浜、二所ノ関、時津風)の中で一番歴史が古いのが“高砂一門”だと紹介されています(高砂は明治11年の初代高砂~、出羽は明治末の横綱常陸山~、伊勢ケ浜は昭和初期に活躍した関脇清瀬川~、二所は昭和初期の横綱玉錦~、時津風は戦前の横綱双葉山~)。
また、初代高砂が本所緑町3丁目の津軽藩中屋敷跡に部屋を建てたのは明治17年(1884)だとも記されていて、それ以前は、別の資料によると、本所米沢町(現東日本橋)の空地を借りて土俵を築いていたといいます。代々の部屋の所在地については改めて調べていきたいと考えています。
さらに東両国(現両国駅前)にあった3代目と4代目の高砂部屋の建物構造の間取図が記され、増築や昭和20年の空襲での焼失、22年新築(2階建)、更に35年に4階建に新築され土俵は3階に2面築かれ、この時初めて部屋に風呂がついたと紹介されています(それ以前は、全員銭湯通い)。
4章は「相撲社会の変動」と題して、江戸時代から昭和61年迄の力士のライフコース(人生経歴)が調査されています。大きく違うのが初土俵年齢で、江戸から明治期にかけては21~22歳だったのが、昭和に入ると15~17歳と若年化したことです。明治時代までは各地方で相撲団が形成され、その中かから選ばれた者が大相撲に入門していたのが、明治以降各地方の相撲団が衰退し、相撲部屋が独自で力士を養成しなければならなくなったためとされています。そういう意味では、学生相撲出身者が圧倒的に増えた現在の大相撲界は、江戸・明治期の相撲界に近いといえるのかも知れません。結章では、現代では崩壊に瀕している「家制度」が相撲部屋の共同生活の根幹を成していて、師匠という家長の元、子どもを養育するように新弟子を育成し、同族としての一門を形成し、部屋(家)を存続させていくという伝統を維持してきたといいます。