高砂部屋伝統の四股名 小錦 八十吉② 高砂雑話 その30

 2代目小錦は、初代小錦の弟子で山形県寒河江出身の本名後藤鶴松。
 幼少の頃から怪童の誉れ高く初代小錦自らスカウトに出向き、明治34年(1901) 14歳のとき創設されたばかりの初代小錦の二十山部屋から山泉の四股名で初土俵を踏みます。
 42年6月新国技館開館場所で新入幕を果たし、翌43年1月場所には横綱梅ケ谷から金星を奪う活躍で名を上げ、45年1月小結に昇進して2代目“小錦八十吉”を襲名。

 大正5年師匠の急逝により、二枚鑑札(現役力士のまま年寄を兼務)で二十山部屋を継承し翌6年引退。大関千葉ケ嵜、清水川、関脇若葉山等を育てました。その長男後藤譽之助は両国高校、東大と進み経済企画庁において「経済白書」作成にあたり、昭和31年度の結びに「もはや戦後ではない」という言葉を残したことで歴史に名を残しています。

2代目小錦

 その後、幕下以下で小錦を名乗った力士が3人いたようですが、関取としての3代目小錦が、“サリー”の愛称で皆様にもお馴染みのハワイ出身の元大関小錦八十吉です。

3代目小錦

 昭和57年(1982)高見山にスカウトされて高砂部屋へ入門。元横綱朝潮の5代目高砂の徹底した「プッシュ、プッシュ」の教えを守り、高校時代に鍛えたアメフトとパワーリフティングでのスピードとパワー溢れる押し相撲で出世の階段を駆け上り、初土俵から12場所で新入幕。

入幕2場所目の蔵前国技館最後となる昭和59年(1984)9月場所で、千代の富士、隆の里の2横綱から金星、大関若嶋津をも破る12勝3敗の活躍で殊勲賞と敢闘賞を受賞、“小錦旋風”“黒船襲来”と、一躍時の人となります。その後も巨体を生かした激しい突き押し相撲で番付を上げていきますが、膝の大ケガに見舞われ一進一退の土俵がつづきます。

 度重なる苦難を乗り越え62年夏場所後に大関昇進を果たしますが、昇進後も膝の痛みに悩まされカド番(負越したら大関陥落)に何度も追い込まれながら、平成元年九州場所で初優勝を果たします。その後も膝のケガや蜂窩織炎等患いながらも優勝3回を数え横綱昇進目前まで迫りますが、平成5年11月場所で大関から陥落。しかしながら平幕に落ちた後も4年ほど土俵に上がり続け、真摯に相撲に向き合う姿は観るものに感動を与え多くのファンに愛されました。

 9年11月場所を最後に引退。引退後はタレントとして幅広く活動し、テレビや音楽、CMの他、相撲イベント等も手掛け、引退した力士のセカンドキャリアの手助けにもなっています。

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