高砂部屋伝統の四股名~ 一ノ矢藤太郎【高砂雑話 ~その 31】

 相撲王国として知られる青森県は、明治16年以来143年間幕内力士が途絶えることなく続いていますが、その嚆矢が高砂部屋の大関一ノ矢藤太郎です。初代一ノ矢は、青森県田舎館村の生まれで津軽相撲で実績を積み故郷に妻子を残し明治13年24歳で入門。16年5月場所で新入幕を果たします。179㎝95㎏と、当時としては長身で、左四つ吊り寄りを得意とし怪力でもあり、22年1月場所大関に昇進。横綱初代西ノ海、大関大達と共に「高砂三羽烏」と謳われます。また、酒豪で知られ人望もあり一ノ矢を慕って津軽からの入門者が増え「津軽部屋」と称されるほどだったといいます。初代高砂部屋が本所緑町3丁目の津軽藩中屋敷跡の1000坪の土地に部屋を構えたのが明治17年。その西隣旧陸軍省用地であった津軽藩上屋敷跡の7000坪の土地の鬼門に野見宿禰神社を築いたのが18年。宿禰神社建立が中屋敷跡地を貸してもらえる条件でもあったようですが、初代一ノ矢の活躍も後押しになったのではないでしょうか。

 25年に引退して協会には残らず故郷に戻り津軽相撲を率いて各地を巡業して廻り66歳で亡くなりますが、相撲王国青森の中興の祖としてその名を遺しています。その後、同じく青森県尾上町出身の緑川兼吉という力士が39年5月場所で一ノ矢を名乗りますが、場所後に脳充血のため27歳の若さで急死しています。昭和に入り、初代一ノ矢の曾孫にあたる力士が春日野部屋で幕内に昇進。「一乃矢藤太郎」と名乗り初代と同じ田舎館村の出身で、横綱栃ノ海は小中学校の同級生だったそうです。36年7月場所入幕を果たし7場所幕内を務め39年7月で引退、青森に戻り弘前市内で「一乃矢食堂」を営んだといいます。

 私事になり恐縮ですが、私が入門したのは元房錦の若松部屋でした。初め「徳の島」という四股名でしたがケガが多く、師匠に四股名を変えた方がいいといわれ「徳錦」に改名。それでも相変わらずだったので、「どうも徳という漢字がお前には合わないようだ」と、房錦さん自ら「房小松」「松光」等、五つくらい書き出した中に「一ノ矢」という四股名があり、「これは明治時代の大関の名前だが、俺の兄弟子の幕下にもいたし、藤太郎という下の名前を変えればつけてもいい」と言われ、「ぜひお願いします」と、入門3年目から「一ノ矢充」と名乗ることになりました。本家高砂部屋の某F親方からは、「お前なんか顔じゃないんだぞ!」と叱責されましたが、房錦さんの方が兄弟子でしたので変えろとは言われずに済み、今に至っています。

一ノ矢充

報告する

関連記事一覧