慶応病院前田和三郎博士

 4代目高砂親方である横綱前田山は、愛媛県八幡浜市の生まれで昭和4年1月場所が初土俵。破天荒な性格で何度か破門になるものの間を取りなす人がいて復帰叶い、佐田岬の四股名で19歳で新十両昇進を果たします。ところが晴れの場所の前に右の上腕が高熱を帯びパンパンに腫れ上がり豪気な佐田岬もあまりの痛さに高砂部屋が日頃からお世話になっていた慶応病院で診察を受けます。当時は不治の病といわれた骨髄炎で、骨がだんだん腐っていき腕を切り落とすしか方法がない難病でした。

 「先生腕を切り落とさんでください。もう一度相撲を取れるようにしてください!」と佐田岬は人目もはばからずに泣き叫び懇願したといいます。

 診察したのは整形外科主任の前田和三郎博士。前田博士は、京都大学医学部を卒業後、文部省在外研究員として欧米を回り熊本大学整形外科医科長を経て、昭和3年から慶応義塾大学医学部教授となり、当時整形外科医として日本で三本の指に入るといわれた名医でした。

 佐田岬の必死の叫びに前田博士は「成功すると約束はできませんが、やれるだけやってみましょう」と当時の医療技術では困難だった手術に挑むことになりました。まだ全身麻酔がなく局部麻酔で腕を切り開き、骨髄の腐った膿を取り除き、腐った骨を少しずつ慎重にノミと木槌で削ってくしか方法はありませんでした。1年あまり入退院をくり返し、5度の手術に歯を食いしばって耐えた佐田岬は不治の病といわれた骨髄炎を完治させました。右腕には、肉を深くえぐり取った大きな傷跡が残ったものの再び相撲が取れるようになったのです。1年間の休場で十両だった番付は三段目まで落ちましたが、再び相撲を取れる喜びに胸躍らせます。その佐田岬が退院後、前田博士の元を訪れ「こうやって相撲が取れるようになったのも先生のお陰です。先生の恩義を忘れずに相撲に命がけで精進するために先生の名前を戴き前田山と名乗らせて下さい」とお願いし、闘魂力士前田山が誕生しました。

 改名後は負け越しなしで大関まで駆け上り前田博士の恩義に報いることができ、前田山と前田博士との家族以上の交流は昭和46年前田山が56歳で亡くなるまで続きます。前田博士は長寿を全うし、奇しくも前田山の8回目の命日にあたる昭和54年8月17日に85年の生涯を閉じました。

(写真は、ベースボール・マガジン社別冊相撲 昭和の名横綱シリーズ10「東富士 前田山 朝潮」(昭和56年刊)より転載)

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