一枚の番付が残っています。枠外上部に「山田長政記念大相撲」とあり、左下に「静岡城内本丸ニ於テ興行仕り明治二五年七月吉日」。中央下の現在の勧進元に当たる願人には「次郎長事山本長五郎」、中央中段には取締として「高砂浦五郎と雷権太夫」の名前が記されています。山本長五郎は、映画や小説でお馴染み清水の次郎長の本名。その次郎長親分のために、当時相撲協会取締だった初代高砂浦五郎が一肌脱いで打った興行が、上記の番付です。
清水の次郎長と初代高砂の縁は、初代高砂が会所(相撲協会)を破門になり(明治6年)名古屋を拠点に改正組として活動していた頃に遡るようです。高砂改正組として大阪相撲や京都相撲とも連携を取り、各地を巡業しながら東京進出を狙い、東海道筋を興行しながら静岡へ乗り込んだのですが、まるで客が入らない。いろいろ聞き回ってみると、ちょうど茶摘み時期で近隣は猫の手も借りたい忙しさで相撲どころではない。動くに動けない窮状を救ったのが次郎長親分でした。高砂一行の食事や宿を手配し、東京までの旅費の面倒までみてくれたそうです。
その高砂と次郎長の仲ををつないだのが山岡鉄舟でした。幕臣で剣豪で知られた山岡鉄舟は、駿府の西郷隆盛の元へ単身乗り込み江戸無血開城をお膳立てし、維新後は明治帝の侍従を務め、剣・禅・書の達人としても有名です。高砂の義侠心と胆力、その政治力は政府高官達からも一目置かれる存在でしたが、そんな高砂の気骨に鉄舟も惚れ込み、維新の頃から親交のある次郎長を紹介してくれたのでした。次郎長は富士裾野の開墾や三保・有渡山方面の新田開発、汽船宿「末広」の開業や英語教育等、社会事業にも貢献していました。そんな次郎長が、明治17年1月公布された「博徒取締処分規則」により、静岡井ノ宮監獄に繋がれる身となってしまい、鉄舟の意を受けた高砂は、政府高官の間を駆け回り次郎長釈放に一役買ったのでした。次郎長もまたその恩に報うべく、22年2月木挽町での花相撲八日間の世話人筆頭として名を連ね、冒頭の静岡城内での興行へと繋がっていったようです。この興行は連日大盛況となり、静岡始まって以来の大賑わいであったと伝わっています。幕末から明治にかけての英傑達は、立場や職業を超えて深く肝胆相照らし合い、その繋がりが激動の時代を乗り越え明治日本を創り上げていったのでしょう。