昨年10月1日にアントニオ猪木が亡くなりました。プロレスファンのみならず、日本中、世界中の人々に元気と勇気を与え続けた猪木さんの訃報は、社会的にも大きなニュースとなりました。
プロレスは、力道山の活躍が戦後日本復興のシンボルとして人々を熱狂させ、弟子であるジャイアント馬場とアントニオ猪木に引き継がれ、馬場の全日本プロレスと猪木の新日本プロレスで黄金時代を迎えます。
力道山は、もともと二所ノ関部屋の力士で関脇まで上がりましたが、現役中に自ら髷を切りプロレス界へ身を投じました。力士時代から酒豪で知られ、飲んで暴れることも度々で、巡業中に酔って手の付けられなくなった力道山を前田山が張り倒したという話もあります。そんな二人ですが、引退の時期は前田山昭和24年、力道山25年と、ほぼ同時期で、26年には前田山は大相撲紹介のため、力道山はプロレス修行のためアメリカへ渡っています。帰国後28年に日本プロレスを設立した力道山は、シャープ兄弟を招聘しテレビ放送が始まった事とも相まって爆発的人気を得、国民的大スターとなります。前田山も4代目高砂親方として、横綱朝潮を育て、37年には第1回ハワイ巡業の団長として大成功を収めます。知米派同士としてお互い認め合う所も多かったのでしょう。
相撲協会は、39年に2回目のハワイ・アメリカ巡業を計画し、アメリカ本土の興行は力道山も協力することになっていました。その相談を兼ねて38年12月8日に前田山が力道山の元を訪ねたとき、力道山は20歳の若者を前田山に紹介しました。
「親方、ワシはこの男を相撲取にしようと思っている。このアゴのことをよろしく頼んます」と頭を下げたと言います。「相撲部屋で体を大きくして、関取になったところでプロレスに戻すつもりです」「そいつは面白い!こいつはいい顔してるね」と前田山が言うと、力道山も「そうだろう!」と二人で豪快に笑い飛ばしたといいます。しかし、その晩に赤坂のクラブで刺された力道山は一週間後に亡くなり、猪木高砂部屋入門の話も幻と消えてしまいます。
もし、猪木が高砂部屋に入門していたら、現在の高砂部屋は、大相撲界は、プロレス界は、今とは違ったものになっていたのかもしれません・・・神のみぞ知ることですが。