
高砂雑話~その25 高砂部屋伝統の四股名①~
高砂部屋には明治の草創期から代々引き継がれている伝統の四股名があります。高砂部屋伝統の四股名を順次紹介していきたいと思います。
まずは、先代師匠が名乗った“朝潮太郎”。朝潮(朝汐)を名乗った力士は明治の初代から数えて5人いますが、全員が横綱・大関に昇進している“出世名”です。初代朝汐太郎は、愛媛県八幡浜市の生まれで本名増原太郎吉。明治14年17歳で大阪相撲の押尾川部屋に入門して力をつけ、初代高砂から勧誘され明治23年1月十両付出しで東京相撲初土俵。初代高砂から「朝汐なんて素人くさいから改名したほうがいい」と言われたそうですが、「強くなればいい四股名になります」と朝汐太郎で通し明治31年大関に昇進、5年10場所大関を務めました。太鼓名人で知られる“呼出し太郎”(相撲界初の叙勲者)は、生家が初代朝汐の隣で朝汐の口利きで呼出しになり朝汐にあやかって「太郎」と名乗ったそうです。明治33年大関として故郷に錦を飾り巡業した折、興行地の前を川が流れ観客が往来に不便だったため仲間に声をかけ一夜にして丸太橋をかけ、3年後には地元の人々によって石橋が架橋され、朝汐の恩を忘れぬようにと「朝汐橋」と命名されたと言います。その後、川は埋め立てられ橋もなくなりましたが、初代朝汐の功績を称え「朝汐橋」という地名と「朝汐橋跡」と刻まれた石碑が現在も八幡浜市に残っています。
2代目は、同じ愛媛県は西条市出身で、地元での怪力が評判となり初代朝汐に誘われて明治34年に入門。朝嵐長太郎の名で番付を上げ、関脇の時に朝汐太郎と改名。大正4年当時無敵を誇った太刀山と引き分け大関昇進。関脇から大関に上がる大正3年7月に2代目高砂が亡くなり、3代目に内定していた元横綱小錦の二十山が10月に急逝。平幕だった青森出身の綾川との3代目襲名争いは裁判沙汰となり部屋を真っ二つに割る大騒動となりましたが、朝汐が現役のまま二枚鑑札で3代目を襲名。敗れた綾川は当時半数近くいた青森出身力士を引き連れ入間川部屋(後に出羽海部屋と統合)へと移籍し高砂部屋の力士数は半減。その窮地を救ったのが大正7年に引退して東関部屋を創設した横綱太刀山でした。8年5月の検査役選挙に敗れると、弟子を部屋毎3代目高砂に譲り協会を廃業。その弟子の中から大関太刀光等多くの関取衆も育ち再び大部屋となり隆盛を取り戻しました。3代目以降は次号にて。


